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趣味ごと、ぼやきメモ。フィギュアスケートを最近見るようになった人。

フィギュアスケートと働き方改革

少し前のこと

フィギュアスケートジェンダー」執筆者の後藤太輔さんのトークイベントへ。

ジェンダーの話はあまり出なかったけれど、

アメフト問題、相撲部屋、フィギュアスケートと「社会」との関わりを知る

いい機会になった。

 

 

フィギュアスケートについては、羽生選手への賞賛として

①スポーツにおいて震災復興という社会性をメッセージできていること

(各スポーツのなんたら協会の類は、もっと社会貢献をアピールしよう)

②アスリートとして働き方改革を実践したこと

(短い練習時間で効率的に成果を出せる、というアスリートのロールモデル)

を挙げていた。

新聞記者ならではの世相の見方をするなぁと思いつつ、色々自分も考えさせられた。

 

①については、米国のアスリート団体・個人の活動を見れば「確かに」と思う。

文化的に違うので、うまく社会に伝えるやり方は違うだろうけれど、

持続可能な社会に向けて、スポーツに限らずあらゆる業界が社会性を意識すべきだろう。

「好きな人/関心のある層だけの内輪の集団」というものは、極めて脆い。

炎上しがちなネット社会では、社会とのズレをいつも後追いするハメになる。

アメフト問題での大学の対応しかり。

最近頻発したジャニーズ問題も、集団の閉鎖性を感じさせて残念だった。

 

②については、「なるほど」と思う一方で「?」も。

フィギュアスケートでの「成果」とは何だろう。

金メダルだろうか。

高得点だろうか。

難しいジャンプを飛べるようになることだろうか。

練習どおりのことを本番でもできることだろうか。

表現で人を感動させることだろうか。

 

表現に、人生や人品があらわれる、と言うなら

表現における「成果」とは何だろう?

豊富な人生経験?

磨かれた人格??

 

そして、「成果を短時間で効率よく出す」とはどういうことだろう?

 

私は働き方改革は賛成している。

さっさと仕事を切り上げ、成果も仕事時間内で出してしまいたい。

でも、「自分にとっての成果」とは何かを考えない効率性とは、

距離を置いていたい。

労働時間を削減すれば全てが効率化できるというのはやや短絡的だと思う。

 

何が「自分にとっての成果であるか」を明確に持ち、

次に「時間をどう使うのか」を考える。

その結果、効率性につながるのではないか。

 

羽生選手にせよ、怪我で十分な練習時間が取れない状況で、

「自分の成果」をはっきりと持ち、

そのために練習時間以外の時間を、有効に活かしたから成果につながった。

そのように周囲も本人も努力したのではないか、と私は思うけれど。

 

アスリートは社会を映す鏡である。

個人的に、そういう意味で私が気になったのは、

羽生選手の「働き方改革」よりも、彼の完全無欠ぶりかもしれない。

ひとりの人間として、あまりにも完全無欠を求められ、

本人もそうであろうと努力しているように見えてしまう。

 

生身の人間として生きているのに、まるでそうでないように語られる。

社会は、彼を賞賛しながら、同時に人間として損なっているのではないか。

 

羽生選手に限ったことではない。

社会性を意識すればするほど、

メディアツールとしての「脱人間」と「人間くさい自分」との乖離は大きくなる。

トークショーでは、

白鵬が記者会見ごとに関係者とメディア対応の「反省会」をしている、

という逸話もあり、驚かされた。

白鵬の場合は、強さへの飽きだけでなく、人種的な偏見とも向き合っている。

トップアスリートはそれぞれ自分と社会のギャップを埋めようと腐心している。

スポーツ界を代表する身としてマイナスイメージを避けたいのは当然のことだ。

 

でもなぁ、と思う。

アスリートである以上、その人の個性は、競技に一番よくあらわれるのに、

メディアに映る個性が、世間に受け入れられる必要がある、というこの風潮。

 

そんな社会への防御の姿が「完璧人間」「脱人間」ならば、悲しい。

社会の求める社会性とは何なのだろう?世間の目を気にしろ、ということなのか?

スポンサーの手前もあるし、税金だって使われているから?

うーん。

人間が人間の身体能力を楽しむだけなのに。

それを求めすぎるのは、あまりに息苦しいのではないか。